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書評『ソクラテスの弁明』

今回は、プラトン著『ソクラテスの弁明』の書評をする。


数ヵ月前に、この『ソクラテスの弁明』を読み終えた。きっかけは、“百獣の王”こと武井壮があるラジオ番組で、『ソクラテスの弁明』を紹介していたからだ。紹介の仕方が素晴らしかったこともあり、原書自体に興味が湧いたため、岩波文庫の『ソクラテスの弁明』を手に取ることとなった。

 

そこで、ここでは本書についての感想を述べる。

 

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(2015年7月 イタリア・ミラノにて筆者撮影)

 

さて、『ソクラテスの弁明』とは、後に“哲学の父”と呼ばれたソクラテスにまつわる。また、本書は、弟子プラトンによって書かれた。話の舞台は古代ギリシャの裁判である。

 

ソクラテスは、“国家の信じない神々を導入し、青少年を堕落させた”との罪状で告発される。物語のすべての場面は、法廷の場であり、ソクラテスにかけられる疑惑や噂に対して、実践と経験に裏打ちされた自身の論理を徹底的に展開し、自らの正当性を主張する物語である。

 

一般教養として、おなじみの“無知の知”は、ここでも登場する。その概念の成立背景を簡単に説明をしておく。

 

ソクラテスの友人は、デルポイにて「ソクラテスよりも賢いものはいない」との信託を受けたため、ソクラテスに哲学的探究を促す。

 

その信託の真偽をソクラテスが確かめる中で、詩人、政治家、手工業者と対話行う。そこでの結論とは、“自身は知者ではないが、それを自覚している点で、他の者より賢い”ということであった。それを“無知の知”と呼ぶ。

 

確かに、“自覚している分だけ他の者よりも賢い”という結論だけを見るといささか己惚れや、傲慢さを感じる。しかし、説明全体の構成を見れば、その結論に至るまでの論理展開が非常に緻密で丁寧であり、むしろ、長きに渡る説明を通して、ソクラテスに訴えを提起した人々の愚かさが浮き彫りになってくる。

 

そのような対話を通じて、話者(ソフィスト達)の誤りや矛盾を浮き彫りにしていくその手法、まさにそれこそが高校の倫理の教科書でも出てくる、AAAランクの重要語であるソクラテスの“産婆術/問答法”である。とりわけ、ここで感動するのは、その産婆術/問答法を法廷の場で即興で実践している彼の毅然とした姿である。

 

彼にとって、自身の倫理観、論理に従って矛盾なく生きることこそ、最も重んじることである。そのような姿勢は、物語の随所に見られ、彼の刑罰を確定する場面においても堂々と臆することなく、自説を述べる。

 

仮に、自説を曲げて減刑を懇願することができても、それは、自身の欲することではなく、むしろ自身の“善き生き方”に反し、そのような態度を取れば、今までの彼の行動に一貫性が無くなってしまう。それ故に、例え死刑が待っていようが頑として、態度を変えることなく弁論を続けるのである。


彼の罪が確定した後に、どのような刑罰を与えるのかという量刑判断の場面に移る。しかし、事もあろうか、挑戦的な発言を繰り広げる。

 

それは、死を恐れることに関して、死後に何が起こるか分からない、あるいは生きているよりも酷い結果になるかもしれない、その為に死を案じることは、知者ではないと喝破する。

 

私が一つ勘違いをしていたのは、法学部(法哲学の講義など)であれば必ず、聞いたことであろう“悪法もまた法なり”である。この法諺は、ソクラテスが死刑判決に従って、毒杯を仰ぐ際に、言われたとされている。

 

その意味として、理不尽な法律といえども国家の法律には従わなければならないと一般的に解釈されている(悪法の解釈はここでは述べない)。平たく言えば、法律に不満があっても従わないといけませんよ、という説明をする際に、容易くこの格言が使われているであろう。

 

ただ、『ソクラテスの弁明』及び『クリトン』を読む限り、“悪法もまた法なり”の原意は、そのような法哲学的な意味ではなく、むしろ人として“善く生きる”とはどういうことかという人文学的な課題だと感じた。

 

 

仮に、ソクラテスが、毒杯を飲まずに友人の誘いに乗り、脱獄をしたならば、裁判上での主張、知者とされる人たちとの対話、死生観、これまでの彼の生き方に反することになる。

 

それ故、脱獄の誘いを頑なに拒否し、この法諺を残し、毒杯を仰いだのである。自分の善(自分が正しいと思っていること)に従って生きるのであれば、悪法に裁かれようが、何も恐れることは無いという強靭な精神である。

 

話しをまとめれば、私が意味するところは、この「悪法も法なり」は、あるべき法や遵法精神を説くのではなく、法に従うことで、結果的に死ぬことになったとしても、自分が善いと考え抜いた上での選択である。大切なのは、自分の選択の一貫性であり、その一貫性の貫徹のために、この(悪)法を受け入れるという人文的な考察ができると思う。

 

最後に、当時裁判に出た時のソクラテスの年齢は70ほどだったとされ、この(屁?)理屈の塊のような老人を想像すると世間も相当手を焼いていたのではないかと想像する。
また、作中では余すところなくたっぷりの辛辣なソクラテスの皮肉にこれでもかと出会うことができ、私の皮肉力が大幅に増量しそうである。