私の学歴 ~第二章:獄中生活~
高校卒業後に初めて入った大学生活は、私にとって、
さて、では何が地獄だったのだろうか。
結論から言おう。
大学の専門である。
選んだ専門が、全く自分に合っていなかった。
私しりぼうの専門は、情報であった。内容は、 数学やコンピュータのプログラミングを主題とし、 主専攻の傍らで、数学や情報教育の免許なども取得できる。
これが最大の過ちであった。
前回、最後に書いた。
それは、大多数の文系学生は、「大学に行くなら、 この専門でなければならない」 という強い意思を持っているというよりも、 大学名や学部の偏差値で、 自分の専攻を決めているのではないかとの疑問である。
事実、第一志望の大学や専門でなくとも、大多数の人は、 学生生活に満足して卒業をしていく。
私自身もそのようになるだろうと思いながら、 大学生活はスタートした。
4月に「情報学科」へ入学し、 初めて専門の授業を受けた時の事をはっきりと覚えている。忘れもない。
その授業は、「情報学科」 の基礎となるいわゆる導入科目の一つであった。名は「 コンピュータの基礎」だったと思う。
教授が教室に入り、教科書を開き、板書をし始めた。
数式やら記号を書き、 何やら高校数学で聞いたことのある用語を使いながら、 コンピュータの演算について、説明をしていた。
授業内容を全く理解出来なかった。もともと文系で、数学Ⅱ Bまでしか終了していないのにもかかわらず、 この学科を選んだ己が愚かであった。
第一義的には、他でもない私しりぼうの責任である。 誰の責任でもない。
「情報学科」は、数学も専門とするため、当然、数学Ⅲ C履修済は、暗黙の了解事項であった。
それでも、「情報学科」の入試科目上、数学Ⅱ Bしか終えていない文系学生にも入学が可能であったので、 私のように入学するや、 ビックリ仰天をした学生もいたに違いない。
「コンピュータの基礎」の話に戻すと、 授業内容は全く理解出来ず、何よりも理解をする気力も無かった。
授業後、ある不安がふとよぎった。
果たして、4年後にこの学科を卒業できているのであろうか。留年や落第を繰り返して、落ちこぼれになるのではないか。
漢文の構文を持ち出せば、
導入科目の「コンピュータ基礎」かつついていけない、いわんや他の専門科目をや。
もちろん、大学は授業だけではない。
大学生活とは、部活、サークル、人間関係、 アルバイトなど様々な要素で成り立っている。
私にしりぼうも最大限の努力を試みた。学科内の交友を深める、 アルバイトを 始める、アウトドアのサークルに参加してみるなど、 色々な手段でもって、大学生活を楽しもうと試みた。
しかし、上手くいかなかった。私しりぼうは堅物だ。 また頑固者でもある。
大学の本分とは学業を修めることである。であるならば、 仮にその学問に興味の無かったら、 ただ時間の無駄ではないかと思った。それどころか、 興味の無い勉強をし続けるなど、私しりぼうにとって、「拷問」 でしかなかった。
自分に興味の無い専門をとることによって、 初めて自分の性格が分かってきた。
しかし、持ってしまった疑問は深まることはあっても、 なくなることは無い。そして、大学への嫌気は増すばかり、 終いには「この大学を卒業することは不可能だ」 と諦念の境地に達した。
太平洋側に立地していた大学は、青空の下、 きらびやかなキャンパスを映し出していた。しかし、 行き場を失った私には単なる色あせた灰色の構内にしか見えなかっ た。
これは由々しき問題だった。もちろん、 認識はしていた。
これは解決をしなければならない。
そして、私しりぼうは、ある結論に達する。
ならば、大学自体を変えるしかあるまい。
大学を変える―これは極論である。また、極端な方法である。
これは、異常である。しかし、極論であるが故に、最も単純かつ明快な解決方法となる。 単純さと明快さは人に最も説得力を持たせる。そして、それは、 他でもない自分自身のためである。
あえて他の解決方法や妥協案を押しのけて、「すべきことは大学変更の一本のみ」に絞ることで、当面の生きる希望を私に与えた。
時を経たずして、 古くからの親しい友人であるヴィルツシャフト氏(仮名)に、 本件を報告することした。 彼ならきっと私の苦悩を理解してくれるのを確信していたからだ。
こうして、私しりぼうは、入学して早一ヶ月そこそこで、「 脱獄計画」を考え始めたのである。
(2013年4月 伊豆大島にて筆者撮影)