緑信号を渡る - どこのドイツだ!

在独歴4約年!思想の飴細工師が書き下ろす!

日本人だと感じる3つの場面

在独期間が3年半を超えた。もはや、ドイツ生活で、感動をしたり驚いたりすることは少なくなった。とりわけ、ドイツ(初めての外国)に来た当初の熱狂的な感動や日本では起こりえない酷いサービスに、いちいち目くじらを立てることもない。
 
生活への慣れは、思考の変化を伴う。ドイツ生活に慣れる為には、しばしば日本的な考え方を捨てなければならない。さもなければ、その違いにいちいち腹を立てなければならないからだ。
 
身近な例を一つ挙げる。ドイツのスーパーの店員が愛想が悪かったり、ある品物があるかを尋ねてもぶっきらぼうな返事しか返ってこなかったとする。
 
日本的であれば、スーパーのレジでは店員は常に立ち、恭しくお辞儀をして挨拶をする。客は神であるかの如く丁重に扱われる。
 
確かに、その基準で考えれば、ドイツの店員は無礼に見えるだろう。
 
しかし、ドイツにはドイツの理論がある。「良いサービスを受けたければ、それなりに対価をしはらわなければならない」である。神の如く扱われたければ、高級スーパーや相応のレストランに行くべきだ。
 
確かに、このように海外生活を通じて、人の考え方は変化しうる。しかし、自分の中で(まだ)変わっていないこと、失われていない日本人らしさも同時に存在する。口語で表現すれば、「やっぱり、私は日本人だな」と感じることである。今回はそれらを取り上げる。

 

1.自己主張が弱い
幾ばくかのドイツ語能力向上に伴い、以前よりかは、自己主張をするようにはなった。
 
しかし、それでもドイツ人のようにガンガンと意見は言わないし、ドイツ語や英語で話していても、基本的には相手の立場になって、意見を言うようにしている。
 
ただ、注意をしておかねばならないことがある。それは、私の自己主張能力のなさは、言語力(ドイツ語)、あるいは、元来の性格に由来するのかを見極めるには、まだまだ様子を見る必要があろう。
 
 
2.日本人と落ち着く
いくら外国語を熱心に勉強しても母語を超えることはなかろう。また、完全に忘れることも無い。
 
なぜならば、母語は自分の中で、絶対的に第一位を占める言語であるからだ。仮に外国語が、母語を超えるならば、その外国語はもはや外国語ではなく、その人にとっては母語となる。
 
さて、ここでは不毛な母語定義論争はしない。
 
ここで言いたいことは、日本人と日本語で会話をするのは、遥かに容易であるということだ。私しりぼうのドイツ語力が未熟過ぎるというのもあるが、外国語を勉強すればするほど、その言語の深さに圧倒される。
 
日本語で話をする。それは私が最も自由になる瞬間の一つだ。
 
日本社会はめんどくさい。日本の縦社会は煩わしい。日本人は曖昧過ぎる―そんな話題を海外にいる日本人同士で日本語でする。しかし、実は、それが海外生活で発生するストレスに対する最もありふれたストレス解消法であったりもする。
 
更に皮肉を言えば、日本社会から離れた者同士で結びつき、再び「海外日本ムラ」を作っている時点で、まだまだ充分日本人的であるのだ。
 
 
3.桜を見て感動する
ドイツにもようやく春が訪れた。先週は春を飛び越えて夏のような陽気であった。
 
新緑の季節となり、若葉が芽吹き、花が咲き乱れる。自然が多いドイツでは、至るところで、春の到来を感じることができる。
 
それでも、桜を見ることほど、感動と春の到来を感じることはない。また、ドイツで桜を見つけた時の感動は格別であり、その時、私しりぼうは日本人であると一層確信をする。
 
下の貼り付けた写真は、昨日撮影したアパートの庭に植えられていた桜の木である。今のアパートには去年の夏に引越しをしたため桜の花を見る機会は全く無かった。また、大家さんからも桜が庭にあることなど特に説明を受けていなかった
 

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もちろん、桜の木が我が家にあることは想定していなかったことはあるが、それでもこの満開の桜の花を見た時、私は日本人でしかないと確信したのである。
 
しかし、それは単純なことで、人生の大半を日本で暮らし、花見や出店などの桜にまつわる記憶はすべて日本で形成されているからだ。それらは日本人として生まれ育った記憶としっかりと結びついている。
 
このように海外生活を長く続けることで、日本人を意識させられる場面には何度も遭遇する。しかし、同時に日本人らしさを失っているのも事実である。
 
「私は何者であろうか。」
 
これはアイデンティティの問題である。私しりぼうは、ドイツ人ではない。それは事実である。しかし、生粋の日本人でも最早ありえない。
 
学生時代に社会学関係の書籍を読んでいた際に「アイデンティティの危機」なる学術用語に出くわした事がある。当時は、頭でっかちの学者が、現実離れしたえらく高尚な言葉を作ったものだな、と思っていた。
 
いや、「アイデンティティの危機」は存在する。
 
今、ここにいるしりぼうがまさに危機の中であるからだ。
 
海外生活を長く続け、現地の言語や文化を理解しようとすればするほど、自分の持つ言語や文化との違いに気づかざるをえない。海外在住者の多くが経験をするのではないだろうか。とことんどっちつかずの半端者になる。
 
さて、最後に半端者であることをうまく表現するには、どのような例えが適切なのであろうか少し考えた。
 
イモリなるかヤモリなるか。いや、コウモリであるか。森であっても林ではない。私の敬愛する恩師の言葉を借りれば、カモノハシか。