緑信号を渡る - どこのドイツだ!

在独歴4約年!思想の飴細工師が書き下ろす!

日本帰国時の3つの違和感について

現在ロシアにてサッカーのワールドカップが開催されている。前回覇者であるドイツは予選リーグを敗退してしまった。とはいえ、しりぼうはスポーツ全般が苦手でかつ興味もない。サッカーに関しても同様である。

 

というわけでもちろんここでの話題はサッカーやスポーツではない。ドイツに来て約4年が経とうとしている。なぜ明確に滞在年数を覚えているかというと、前回ワールドカップでドイツが優勝した年の夏に渡独をしたからだ。

 

さて、今回は日本に一時帰国したときに感じた違和感を紹介する。いつも通り個人の感想に過ぎないので、一般化はできないだろうが、海外に長く住んでいた人には理解できるかもしれない。

 

もちろん、日本の批判めいた書き方になるが、そうではなく、ある意味ドイツの生活に慣れ過ぎてしまい、日本で住んでいた時には当たり前で感じることもなかったことが、やたら過敏に感じるようになっただけである。

 

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1.お辞儀

日本において、出会いや感謝、謝罪、別れなどのほとんどいずれの挨拶においても、大なり小なりお辞儀をする。去年、日本で2か月ほど働いていたが、毎日、首を上下していたら本当に首が痛くなってしまった。

 

それほど、ドイツではお辞儀をしていない証なのだろう。

 

 

2.電車のアナウンス

日本の電車のアナウンスは、多すぎて逆に聞き取りづらく感じた。ドイツの場合、駅に到着する2~3分前に1度だけ到着駅のアナウンスがある。もちろん、到着駅が中央駅などの乗り換えが多くできる行先であれば、多少余分なアナウンスはある。

 

しかし、日本の電車の場合、鉄道会社や路線にもよるが、乗ってから、終点、終点までの駅、次の駅のアナウンスがあり、さらに到着前に再度同じ情報を何度も繰り返す時がある。

 

前回帰国した際には、一体次の駅は何なんだ、と感じた。次の駅名さえ聞き取れれば、「まだ、自分が下りる必要がないな」と勝手に判断できる。次の次や最終目的地を何度もアナウンスするおかげで、余分な情報も「この情報は不要である」と聞き取らないといけないし、何よりもアナウンス続きで騒がしい。

 

しかし、すでに述べたようにドイツの鉄道は、一回しかアナウンスがない上、アナウンスや車内の電光掲示板が誤っている場合もしばしばある。その結果、降りるべき駅を降り過ごしてしまうこともあるので、一長一短ではある。

 

 

3.難しいです

自分も含めて、日本人の特性として、何かをはっきりと断るのが苦手だと思う。特に、仕事の場面で上司からの頼み事や客先からの要望に対して、「できません」というのは、強靭な精神力もしくは鈍感力を必要とする。

 

そうはいっても、物理的、現実的にできないことは、当然存在するので、しっかりと断らなければならない。その際に、使われる言葉が、「難しいです」である。ただ、英語でもドイツ語でも同じだが、「難しいです」=「不可能です」ではない。ドイツ語で、何かできないときは、「できない」と表現し、時間や労力はかかりが、可能であることを「難しいです」という。

 

ここで、しろぼうがかつて某物流系のコールセンターで働いていた時の話を紹介したい。

 

その際、英語対応の電話が入り、食品をアメリカに送りたいとのことであった。その会社の規定では、食品をアメリカに発送することはできなかった。そこで、「それを送ることは難しい。」と英語で答えた。

 

それに対して、相手は「で、送れるの?送れないの?」と聞き返してきた。言われてみればそうである。「可能/不可能」の問いに対して、「簡単/困難」の回答は奇妙である。

 

そして、私しりぼうも一時帰国した際に、逆の立場で全く同じ経験をした。

とあるドラッグストアに行った時のことである。子供の体を拭くためのウェットティッシュのようなものを探していた。ただし、濡れているのではく、ウェットティッシュの素材に近い、乾いた「ウェットティッシュ」を探していた。

 

店内をくまなく探したが、見つからなかったため、店員にそのようなものが店舗にあるか尋ねた。その店員も同じように、店内をくまなく見て、私の所に戻ってきた。そして、こういった。

 

「こういうものは、ウチにはちょっと厳しいですね。」

 

言われた瞬間、すぐに相手の意図を理解することができず、数秒ほどしたのち、「ということは、そちらには置いてないということですか?」と聞き返した。

 

それに対して、その店員は、またもや

 

「そうですねぇ、厳しいですね。申し訳ございません。」

 

その時には、彼の言わんとしていることは、完全に理解はできていたのであるが、「存在しないこと」を「難しい」と表現されたことには、違和感が残っていた。

 

もちろん、彼の言動を攻め立てている訳では全くない。揚げ足取りでもない。ただ、日本語の持つ婉曲的な表現を自身が忘れてしまっていた瞬間であった。

 

長期で海外に住んでいると帰国した際に、本当に些細なことでもドイツとの違いを気づかされる。しかし、このような相違は無数に存在するので、すべてをここで書ききることは、「難しい」ので、筆を置くとするー現代風では、鍵盤を叩くのを中止するとでも言うべきか。