緑信号を渡る - どこのドイツだ!

在独歴4約年!思想の飴細工師が書き下ろす!

現地語ができないことによる3つのデメリット

先月、休暇中に家族でフランスのパリに行った。友人宅で数日間宿泊をさせてもらいパリを満喫した。短い数日の滞在ではあったが、観光地、スーパー、レストランなどを訪れることができた。
 
今回のテーマは、外国に住んでいてその現地語を話せない時のデメリットを紹介する
なぜならば、滞在時にフランス語ができないことで不自由な思いをしたからである。また、同時に4年前にドイツに来た際に感じたドイツ語ができないことによる苦労を思い出した。
 
今回は、海外の現地で話されている言語ができないことによってもたらされるデメリットを紹介する。それらを通じて、なぜ現地語を学ぶべきなのかを間接的に示すことができるだろう。
 

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1.挨拶が怖い

ここで意味することは、現地語の挨拶をすることである。
 
ドイツでは、「Guten Morgen」、英語圏であれば「Good morning」、フランスであれば、「Bonjour」などのごく当たり前の挨拶である。
 
こじんまりとした店やスーパーのレジであれば、店員に出くわした際には、必ずこのような挨拶をすることになる。
 
しかし、言語ができないとこの挨拶をするだけでも億劫になる。なぜならば、「仮に、挨拶をして、店員に何かを聞き返されたらどうしようか。」という不安があるからだ。当然、その回答方法を知らないので、自然と挨拶の声は小さくなる。
 

以前の私の記事「私の外国語が聞き返される3つの理由 」でも述べたが、自信が無いと声が小さくなる。当然、言語を学習していなければ自信など全くないので、声は自然と小さくなりがちになる。小さいならまだしも、ややもすれば、「店員に見つからぬよう」あるいは「店員に余計な質問をされないよう」挨拶をしないで、店員を接するかもしれない。

 

はっきり言ってこれは最悪である。このような態度は、かなり無礼で非人間的な態度になることを肝に銘じなければならない。

あなたの言語力の低さは相手にとって、微塵も関係ない。もちろん、「自分はまだまだ外国人なので、外国語ができないことを汲んでください」は通用しない。
 
百歩譲って、見てくれが観光客然として、観光地であれば、ある程度は許容されるだろう。しかし、現地に生活の基盤を置いているのであれば、出会い、別れ、感謝の挨拶は必須である。
 
仮にできなれば、英語ではっきりとした声で、表現するしかない。
 
私しりぼうは、ドイツではもやそんな不躾な対応はしない。堂々とドイツ語で挨拶をする。
 
しかし、白状しよう。
 
フランス滞在時に、スーパーへ買い物に行った。その際にレジで会計をしなければならないのだが、まるで牙の抜かれた虎の如くーいや、怯え切った子羊が正しいかー、小声でボソッと「ボンジュル」と言うのが精一杯であった。
 
全く恥ずかしい出来事であった。
 
 
2.選択肢が狭まる
ドイツを例に挙げれば、観光地の一部のレストランを除いて英語メニューなど存在しない。当然、日本食のレストランを除けば、日本語表記など通常は無い。スーパー、街のパン屋、肉やに行けば、商品表示、店員はドイツ語である。
 
そこで、ドイツ語ができなかった場合どうなるだろうか。当然、ドイツ語を理解できれば、得られる情報を得られないわけであるから、選択肢、持ち駒はドイツ語話者に比べて少なくなる。英語からの情報に頼る、少し高かったり、(立地的に)不便だとしても日本人が提供するサービスを受けようとするかもしれない。
 
それを損であるか得であるかを判断するのは、火を見るより明らかである。
 
 
3.すべて億劫になる
言語ができないとすべて不安になる。あらゆることすべてである。フランスに数日滞在したことで、完全に忘れかけていた悪夢が蘇った。それは、四年前に全くドイツ語ができない状態で来た時の頃の思い出である。
 
街を歩いていれば、ドイツ語で話しかけられたらどうしようか、電車に乗っている際にも不規則な事態が起きないだろうか、到着駅まで心配をする。当然、街の小さなパン屋や肉屋には入りずらく、チェーンでないお洒落なカフェを新しく見つけてもなかなか足を運びにくい。
 
そう、すべてはドイツ語ができないからである。
 
ドイツ語ができない場合、まずは英語で店が対応可能か確認をしなければない。多くの場合、それで入店拒否やサービス提供拒否なんてことはない。それでも、常にドイツ語ができないという不安をその際に思い知らされるし、そんなことであれば、よっぽど慣れ親しんだチェーンの店に行ってしまう。
 
これが題名にあるよう「億劫になる」ということである。
 
 
 
私しりぼうはフランスのパリに数日滞在して、かつてドイツで味わっていた「不自由」を思い出した。しかし、同時に思うのである。
 
なぜ、ドイツに住んでいるにも関わらずドイツ語を勉強しない外国人がいるのであろうか。
 
パリからドイツへの帰路の間に、ふとその理由を考えていた。おそらく、こうであろう。
 
ドイツー他の外国でもよいーに来た当初は、確かに、言語ができないことによって生活上の「不自由さ」を感じていた。しかし、経験的に生活をする中で、ドイツ語がなくとも、買い物や公共交通機関利用がある程度は、できるようになる。
 
その結果、その「不自由さ」に慣れてしまう。もしくは、「不自由」であることを忘れてしまうのかもしれない。そして、残念ながら、そこには、言語学習という動機はほとんど残されていないのだろう。
 
もちろん、言語学習を目的にドイツや海外に来た訳ではないのも理解はしている。それぞれの人の事情はあろう。ゆえに、「海外に来た限りは、その国の言語を勉強しなけれならない」などと居丈高に言うつもりはさらさらない。
 
しかし、一つ言えることは、海外に住んでいるにもかかわらず、その国の言語を勉強しようとしない人は、「外国語が上達すれば、どのような世界になるのか知らない」ということである。言い換えれば、その現地の言葉が話せることで、どれだけメリットをもたらし、生活の質が豊かになるかを想像できない可能性が高い。しかし、経験をしていないのだから、想像をすることは困難である。当然である。
 
もちろん、私しりぼうのドイツ語はまだまだ発展途上の段階である。しかし、言語ができることによるメリットは理解しているつもりである。ゆえに、仮に私が来年からフランスに一定の期間ー例えば、数か月から数年間ー住むことになれば、絶対にフランス語を勉強する。
 
なぜならば、言語ができることによるメリットを理解し、既に身をもって体験しているからである。