緑信号を渡る - どこのドイツだ!

在独歴約3年!思想の飴細工師が書き下ろす!

炎上必至、出羽の守3大発言

海外に少しでも暮らした事のある人間ならば、言ったことがあるだろう。あるいは、海外で生活をしていた事のある人間から、一度は聞いたことがあるだろう。
 
それは、「海外(国名)では〇〇で、日本ではこうだ」という表現である。しかも、海外と比較することによって、海外の方が優れていて、日本は未熟で足りないと直接的もしくは間接的に示すのである。
 
例えば、アメリカでは、スターバックスのshortサイズでも充分大きいのに、日本のは小さ過ぎる。ドイツでは、大学まで教育費が無料だが、日本の大学は国立でも、まだ高過ぎるなどなど枚挙に暇がない
 
枕詞の如く、〇〇では、△△では、と言うことから、そのような人々を「出羽の守(でわのかみ)」と呼ぶ。
 
Gooの辞書によれば、「出羽の守」をこのように説明する。
 

1 出羽国の長官。

2 《連語「では」と「出羽」をかけて》「海外では」「他業界では」のように、何かにつけて他者の例を引き合いに出して語る人のこと。多くは揶揄 (やゆ) の気持ちをこめていう。

 
もちろん、ここでは二つ目の意味で「出羽の守」を使用している。この説明を聞いて、心当たりのある人もいるであろう。私しりぼうも少なからずその一人だと思う。自戒を込める。
 
さて、話を戻すと、一番問題になりうるのは、日本に帰国したときである。短期であれ長期であれ海外文化に触れた者は、どうしても自分が現地で体験した感動を土産話として語りがちである。
 
もちろん、異文化に触れる事によって、今まで生きてきた中で当たり前とされていたことが崩れ、有り体に言えば、視野が広がったことを否定する訳ではない。むしろ、色々な文化や言語に接することを殊更止める理由などないだろう。
  
ただ、この異文化体験の話は、聞き手を不快にさせたりしうる。最悪、大顰蹙(だいひんしゅく)を買う場合がある。
 
なぜならば、冒頭でも既に述べた通り、出羽の守の話は海外事例を持ち出す事で、日本や日本人、しいては日本社会全体を直接的ないしは間接的に批判することがあるからである。
  
そこでは、ここでは、自身の経験と出羽の守(自身を含む)たちを見てきたことによって、日本で大炎上間違いなし、とっておきの出羽の守発言を紹介する。
 
それは、事前に炎上しうる話題を知ってくことで、不要な争いを避けることができよう。
 
もとより、自戒をこめて。
 
また、大炎上間違いない発言の紹介ゆえ、しばしば、過激な表現になりがちな事は許されたい。
 
もちろん、日本には日本の良さがあるのは大前提であることを付け加えておきたい。
 

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(2013年8月 都内某所にて筆者撮影)

 

1.夏が不快過ぎる

海外のどこに住むのかにもよるが、ドイツと比べた場合、ドイツの夏は圧倒的に過ごしやすい。他方で、日本は地獄そのものである。
 
 
理由の一つは、湿気である。
 
 
ドイツの夏は、日本ほど湿気は酷くない。また、暑さに関しても、アパートの壁が厚いので、窓を締め切って、カーテンをしておけば、外の熱がアパート内に入ることはあまりない。
 
故に、クーラーがなくとも室内はほんのりと涼しく、快適なのである。
 
ドイツの乾いた夏に慣れてしまうと日本の湿った暑さには、段々と耐えられなくなってくる。というのも、昨年の9月末、日本に帰国したのだが、空港に着いた瞬間に、不快な湿気をすぐに感じ取った。
 
それは、一瞬だった。航空機からターミナル建屋に入るまでの通路部分で、すぐさまここは日本だと分かった。
 
更に驚いたことには、その際に両親が「先週から随分、涼しくなって、ようやく蒸し暑さも無くなった」との発言のだった。
 
嫌味ではなく、本当に自分にはまだまだ暑すぎると思ったし、何よりも湿気が不快だった。常にベタベタがまとわりつき、シャワーを浴びるまでいつまでも続くのである。
 
この手の話はあまりし過ぎると嫌われうる。
 
---ここでの炎上キーワード---
「サウナ」
「蒸し風呂」
「我慢大会」
 
  
2.すべてが小さい
一概には言えないが、例を挙げれば、首都圏の物件は異常である。家賃に見合ったアパートの広さや快適さは無い。
 
私も東京でアパート暮らしをしていた事があるが、今から考えるとよくあんな小屋のような部屋でぎゅう詰めにして暮らしていたなと思う。
 
まず、総面積は狭い、部屋数も少ない、コンロは一つかせいぜい二つ、流し台はホビットサイズである。
 
---ここでの炎上キーワード---
「鳥小屋」
「ホビット」
「満員電車は無理」
 
 
3.労働環境
私の場合、この環境が変わらない限り、再び日本で住むことはないだろう。もちろん、今も「働き方改革」の名の下、官民一体となって、労働環境の改善に取り組んでいることは全く否定しない。
 
しかし、悲観論者のしりぼうからすると日本を先進欧州国家並みに目指すのであれば、相当な年月がかかるであろう。
 
暴論を言えば、自分の労働環境を改善したい場合、それは、日本社会が変わるのを待つか、住む社会を自ら変える(海外移住)かのいずれしかない。
 
さて、労働環境に関してであるが、日本とドイツを比べるとあまりにも異なる。あらゆる点で日本の労働環境は過酷である。残業時間はもちろんのこと有給休暇の取得にも歴然たる差がある。
 
私の知っている限り、日本の有給制度とは、入社半年後に10日の有給を付与される。その後、一年ごとに1日ずつ年間有給日数が増えていくしくみである。6年と半年経った時、有給は最大となり年間20日となる。
 
ここで、少し意図的に出羽の守になると、ドイツでは有給休暇を、年間最低24日取得できる(しなければならない)。また、法律の規定を超えて24日以上有給の取れる企業も少なくない。現に、私の労働契約上、年間27日の有給を取得できる。また、法律上、一年のうち最低1回は2週間連続の休暇を取得しなければならない。
 
更に、大きな違いは、病欠の際には、有給休暇を取得するのではなく、医師が診断し発行する証明書※1でもって、会社を休むことになる。要は、病欠時には有給を消化しないということだ。
 
ドイツの有給休暇に関して、やや厳密性を書く言い方をしたが、大まかに言えばこのようになる。また、ドイツの有給休暇事情は別の機会で取り上げる。
 
こういった前提では、日本で働く大部分の人と腹を割って話をできない。なぜならば、単にドイツ事情を紹介しても、もはや嫌味にしか聞こえず、妬み嫉みに遭う可能性があるからだ。
 
昨年、日本に帰国する機会があり、ある日本人と話をした。東京で働く日本人である。たまたま話題が同じになったので少し紹介する。
 
その人は、いつか海外旅行をしたいと言っていた。そこで、私しりぼうは、では最近旅行に行ったのはどこで、期間はどれぐらいかと尋ねた。
 
そうすると、答えはこうだった。
 

数年前に新婚旅行で2週間アフリカに行ってきました。

 

私も東京で働いていたことがあるが、日本では、2週間連続の休暇を取得するのは容易ではない。それは理解できる。続けて、その日本人はこう言った。
 
2週間の休暇を取る何て、働いている限り一生に一度だと思うので、新婚旅行という理由で思い切って取りました!
 
私はこの話を聞いた時、喉を超えて舌先まで、上記で説明したドイツ事情が出かかった。特に、年間最低でも1回は2週間連続の休暇を取らなければならない、という部分である。
 
しかし、私は堪えた。私は自身の言いたいという欲望を押し殺して、舌先まで出かかったドイツ事情を再び体内へと飲み込んだのである。
 
私は、自問自答をした。このような話をしている人に海外事例を言って何の意味があるのだろうか、今、現に暮らしている人の日本社会を批判して何をもたらすだろうか。単なる会話の中で、論議を巻き起こす必要があるのだろうか。
 
そう、私は貝になった。
 
新婚旅行を楽しめて良かったですね、が私の精一杯の返事だった。
 
せっかくのハネムーン話を潰してたくなかったからだ。
 
 
ところで、私しりぼうは司馬遼太郎の作品が好きで、とりわけ『竜馬がゆく』に関しては、気に入ったフレーズや文章は何度も読み返している。
 
その時、作中のある一節が頭をよぎった。
 
竜馬は議論しない。議論などは、よほど重大なときでないかぎり、してはならぬといいきかせている。もし議論に勝ったとせよ、相手の名誉をうばうだけのことである。通常、人間は議論に負けても自分の所論や生き方は変えぬ生きものだし、負けたあと持つのは負けた恨みだけである。
 
 これは、日本で最も重要な処世術の一つであろう。
 
こういうった文脈で休暇を捉えると、日本の休暇に対して何も話をすることができなくなる。
 
例えば、日本三大大型連休といえば、年末年始、ゴールデンウイーク、お盆休暇であるが、相手を傷つけるのを恐れるあまり何も言えない。いや、本音を言えば、妬み嫉みで嫌われるのを避けるあまり何も言えないが正しいかもしれない。
 
日本の大型連休とは、大型と名を売って銘を打ってもせいぜい5~6日程度である。もちろん、暦の関係と通常の有給休暇を組み合わせることで、最大で10連休ぐらい取る人はいるかもしれない。
 
それでも、皆が同時期に休暇になるため、車での移動は大渋滞、電車のチケットは高騰、新幹線は理解を超えた乗車率150%、観光地は人だかりとなる。
 
海外旅行をするにしても、この期間はとてつもなく高い航空券を買わされ、長くて1週間程度の忙しい休暇になる。これで、「休み」と言えるのだろうか。せっかく、先進欧州諸国と比べて税率が低く、可処分所得が多かったとしても、異常に高い値段を払わされるのである。
 
この手の話は本当に日本ですることができない。いや、話し手を慎重に選ばなければならないったところか。
 
私の場合、家族の中であったとしても、自らの言葉に慎む必要がある。少なくともそう言い聞かせている。ひょっとすると、両親は理解をしてくれているかもしれない。なぜならば、親とは、我が子が最適な環境でのびのびと生活することを一番に望んでいるからだ。
 
しかし、兄弟となると話は別である。なぜならば、別の生活をして、なまじ互いに比べることのできる環境であるので、注意が必要である。
 
血を分けた兄弟すらかつ注意が必要である。いわんや友人、知人、同僚をや、である。
 
何度も口を酸っぱくして言うが、いつも日本を批判するつもりで言っているわけではない。ただ、海外で生活をしてみて、その違いを述べただけなのである。しかし、受け手に誤解される危険性がある以上、この手の話題には注意すべきであろう。
 
しかし、何も出羽の守に限らず、相手に合わせて話題を振るというのは当然のことである。例えば、高校生にビジネスの話をしても、あまり興味を持たれないだろうし、大学生が社会人から「若者は苦労を買ってでもすべき」などの有り難い話を聞かされてもウンザリするだけだ。
 
そもそも、人に合わせて話題を振るという行為、それは、全く当たり前のことで日常的なことである。意識/無意識の違いはあるにせよに多くの人が気にかけていることであろう。
 
しかし、最後に疑問が残る。
 
それでは、人に合わせて会話を日常的に選んでいるにもかかわらず、なぜ、出羽の守のように海外事例を場違いに披露してしまうのだろうか。あまりにも非論理的な結末でなかろうか。
 
私の答えの一つは、これである。
 
それは、当人にとって、いかに海外での生活が刺激的で、日本で暮らしているだけでは得られないもの得ていることを意味すのではないか。そして、海外生活によって、壊された自身の既成概念を誰かに語りたいだけなのかもしれない。
 
なぜならば、自分が感銘を受けた本を他者に紹介するがごとく、他者にも感動を味わって、共有してもらいたいからである。
 
しかしながら、感銘を受けた本の紹介と同じように、実際にその本を手に取って、共に感動を分かち合うことがほとんどないのと同様に、海外経験を披露しても、海外とは無縁の人と理解を深めるのは困難である。
 
 
 ※1 ドイツ語でArbeitsunfähigkeitsbescheinigungと呼ばれる。