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在独歴4約年!思想の飴細工師が書き下ろす!

私の学歴 ~第五章:戦線離脱~

シリーズ「私の学歴」の第五弾である。

 

ここでは、主に前回述べた「自然気胸」について紙面(ウェブページ)を割くことになる。以前にも述べたが、大学を変更するにあたって、この病気との戦いが最も障害となるからである。

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「自然気胸」こちらの病気の原因は未だ解明されていないのだが、なぜか統計上、若い男性高身長細身の人が発症しやすいらしい。

 
当時のしりぼうは、19歳178cm約50kgであり、見事にすべて条件に該当していた。
 
最もこの病気の厄介なのは、再発率が非常に高い点である。
 
手術を伴わない「ドレーン処置」であれば、再発率は30%~50%である。他方で、手術の一つ「内視鏡手術」であれば、5%。背中をぱっくりと魚を卸すかの如く切る「開胸手術」であれば、再発率は数%以下となる。
 
程度にもよるが、再発をした場合、当の本人は気付くことができる。少なくともしりぼうには分かった。
 
再発すると、胸腔内に空気が漏れるため、屈みこんだり、ジャンプをしたりすると胸内の空気が「ゴボッ」と音を立てて、移動するのを感じることができるのだ。
 
当時、朝起きてからしりぼうがしていた事は、前かがみになり空気の移動が無いことを確認して、一日がスタートする。もちろん、一日なんども屈みこんだり、ジャンプをするなどして常に再発はないか怯えることになる。
 
当然ながら、この「自然気胸」を対処しなければ、受験勉強はおろか通常の生活を送ることができなかった。
 
故に、まずは治療に専念するしかないと断念をした。しかし、あくまでも受験という戦争から一時戦線離脱をするだけで、回復後は、再度、「戦地」に戻ると決めていた。
 
9月初頭に発症し、「ドレーン処置」し、回復し退院をしたが、すぐに再発を繰り返した。担当医からは、専門の呼吸器外科で診てもらった方が良いと勧められた。
 
そこで、呼吸器外科のある医療センターへの紹介状を貰い、専門医と話をすることになった。
 
専門医K医師から言われたことを今でも覚えている。
 
「方法は二つある。このまま何も処置をしない。なぜならば、今後、再発をしないかもしれない。もしくは、外科的治療をし、病原を取り除く。」
 
すべては、患者しりぼうの選択である、と。
 
私しりぼうが出した回答は、前者であった。自分が言ったことも鮮明に覚えている。
 
 
直感ですが、おそらく再発しないと思います。ですので、そのままにしておきます。
 
 
数日後、そして、再発した。
 
しりぼうはすぐに腹をくくった。
であるならば、取るべき手段は一つである。
 
「手術にて病原を取り除くしかあるまい。」
 
呼吸器外科のK医師も患者の決断にとりわけ驚くことはない。なぜならば、当然の帰結であるからだ。
 
術式は、内視鏡手術にて肺の病原(ブラもしくはブレブ)を切り落とし、さらに特別な薬剤を胸内に散布することにした。
 
この薬剤によって、肺を炎症を起こさせ、胸壁と肺を意図的に癒着させる。
 
その結果、例え、再度、ブラ、ブレブが発生し、そこが破裂したとしても、肺から脱気することなく、「自然気胸」は発生しない。
 
火事が起こるのを恐れるのであれば、空気がなければいい。媒介となる空気が無ければ、燃えることもない。真空こそ防火の解決策である。
 
この「二段構え」の術式であれば、開胸手術と同様の再発率数%以外に抑えされ、さらに傷口が少ないため身体への負担が小さい。
 
手術日は、K医師がアメリカでの学会から帰国する11月上旬とした。
 
身体的な安定なくして、受験勉強などできない。勉強はおろか、普段の生活もままならない。
 
まずはこの自然気胸を制さなければならない、と自身を説得していた。
 
手術数日前には検査入院で病院暮らしを開始していた。それでも、病棟には、受験参考書を持ち込んでいた。しかし実際のところ勉強などできなかった。それでも、大学に絶望し、病床に伏した自身には当面の「救い」が必要であった。
 
この困難を乗り越えた瞬間には、希望の大学生活が待っている(かもしれない)という希望が必要であった。であるならば、なぜこんな目に遭わないといけないか、自信で納得がいかなかったからだ。
 
積み上げられた参考書は、他人には単なる大学受験書籍であろうが、当時のしりぼうには、現状を打開しうる可能性を与える「聖書」であったのだ。