緑信号を渡る - どこのドイツだ!

在独歴4約年!思想の飴細工師が書き下ろす!

ドイツ語の語彙数1万到達して得た事3つ

地上で見る街と高さ100mの展望台から見る街並みは異なる。同じく街であるにも関わらずだ。
 
外国語学習においても同様である。学習単語数を高さに見立てた場合、1万単語を学習することは、そこまで低い展望台ではないだろう。自ずとそこからの「景色」は、「地上」と異なるはずだ。
 
すばり言えば、ドイツ語1万単語を学習したことによって、何を得たのかを説明したい。
 
単語数を計測しながら、コツコツと学習をして、約2年が経った。厳密には、807日(2018年5月1日現在)。
 
ちなみに何故、単語数にこだわるのかを少し説明をしておくと、私しりぼうは、「単語教」の熱心な信者―ややもすれば、狂信者―であるからだ。
 
「単語教」とは、読み、書き、聞く、話すなどの、言語における諸能力の源泉は、単語力(熟語も含む)である、との教義を信じることである。
 
是非はともかくとして、「単語教」については、別の機会に取り上げたい。
 
さて脱線をした。それでは再び本題に入る。

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(2014年7月 フランクフルトマイン川ほとりにて筆者撮影)

 
1.劇的な変化無し
学習単語数のカウントを始めたのは、約2年前からである。当時は1万単語など雲の上の世界と思っていた。しかし、現在しりぼうは、かつて思い描いていた「雲の上」にいる。
 
確かに、当時よりかは遥かにドイツ語を使えるようになった。ただ、それでも当時抱いていた幻想―1万単語学習すれば、不自由なくドイツ語を駆使できる―は、現実のものとはならなかった。
 
しかし、単語力こそ外国語能力における力の源泉、という自身で打ち立てた仮説は徐々に実感しつつはある。学習単語数が増えるほど、話す、聞く、読む、書くの能力は確実に上昇する。
 
以前よりかは、マシにはなった。ドイツ人同士の会話を多少は理解でき、自分の言いたいことや冗談を言えるようにはなっている。
 
もちろん、劇的な変化ではない。しかし、変化は確実にある。
 
成長の実感。
 
これぞ外国語学習を継続する際の最大の動機付けである。
 
単語学習に投下した努力に対する成長の実感とは、とりわけ「単語教信者」にとっての「拠り所」であり、「救い」である。
 
 
2.されど、自信がつく
外国語会話をうまくなるには、どうしたら良いか。こう言われることがある。
 
間違いを恐れず、自信を持って話続けること。
 
一理はある。しかし、しりぼうに言わせれば、何も努力をせず、ただ話続けることによって得た会話の「自信」は、自信でもないでもない。間違いに意識をしなくなると更に質が悪い。
 
そういった中で得られた自信とは、単に自らの誤りに鈍感になっただけか、もしくは、言語力を向上する意思を放棄しただけである。あるいは、聞き手が自分の話す外国語に慣れてしまったのかもしれない。
 
ところで、キリスト教の偉大なる教えの一つである「過ちは人の常、赦すは神の業」といわれて、久しい。
 
しかし、言語学習において、間違いを意識し、それを直していくことが重要だとすれば、単語教の最も重要な教義は、「過ちは人の常、正すも人の常」となるだろう。
 
努力に裏打ちされた自信のみ、絶対的な安定感を生む。
 
 
3.我、慧眼を得たり
既に述べたが、1万単語学習達成によって、劇的な言語力の向上はない。しかし、同時に変化は確実存在し、それがある種の自信となると述べた。
 
成人になってから、自主的な学習によって外国語をものにしている人は尊敬に値する。
 
なぜならば、とてつもない努力をしたことが容易に想像できるからだ。敬服する。
 
他方で、外国語能力の低さに嘆く割に、努力を怠る人には、残念ながら、冷めた目で見ざるをえない。
 
 確実に継続して学習する必要がある。

 

誰もが分かりきったこの原理原則を行動に移すのは、意外にも少数派である。行動を伴うまで真に理解していないのは不幸でしかない。ただ、言語学習の本質を考えれば、時間と学習行為は必須だ。苦労は要らないが努力は確実に必要である。
 
 
とまあ、偉そうなことをのたまわったのだか、自身のドイツ語もまだまだである。次なる目標は、今年中に1万2000単語を達成することと、英語を本腰を入れて勉強を始めるとする。これにて、「単語教」狂信者の戯言を終えるとする。