緑信号を渡る - どこのドイツだ!

在独歴4約年!思想の飴細工師が書き下ろす!

Mr. 学歴ロンダ3つの教訓

今回は学歴ロンダしりぼうの実体験を紹介する。
 
まずは学歴ロンダとは何か。しりぼうの言葉で定義をする。
 
学歴ロンダとは学歴ロンダリングの略称である。資金洗浄=マネーロンダリングに因む。自身の学歴―主に大学―にコンプレックスを持ち、理想とする大学へ移り、学歴を塗り替えること。手段は、再受験、編入試験、院試験などが存在する。多くはより高偏差の有名大学を目指す。
 
以前の私の学歴でも述べたが、私しりぼうの学歴を再度記載する。
 
1.某地方国立大学 情報学部
2.某中堅国立大学 法学部
3.某旧帝国大学大学院 ジャーナリズム
 
1ではセンター試験+国立大学入試(通称二次試験)、2では三年次編入試験、3では大学院入試を受けた。さらに暴露すれば、1と2の間に仮面浪人し、再度センター試験+二次試験を受けている。
 
そうすると、私しりぼうは、学歴ロンダの定義で述べた手段をすべて使っていることになる。
 
大学を変えたかった理由は後述するが、やはり一つの大きい理由は、「良い大学」に入りたかったのであろう。定義でも述べたが、偏差値の高い誰もが知っている有名な大学である
 
アメリカの心理学者マズローの欲求5段階説を借りれば、私しりぼうは、「承認欲求」の塊のような人間である。ただし、その考えの是非はここでは述べない。別の機会を設ける。
 
仮に、私のような学歴ロンダの塊の人間を学歴ロンダリストとでも呼ぼう。今回は、学歴ロンダリスト・しりぼうが学歴ロンダリングを実際にする中で、得たことを披露したい。
 

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1.転地療法

一つ目の教訓とは、転地療法である。

 

まずは簡単に定義をする。

 
転地療法とは、何かに不満がある場合、自らが置かれている環境を変えてしまう事で、不満という問題を解決する方法である。例:大学、会社、住居、人間関係など。

 

冒頭や以前の「私の学歴 ~第一章:プロローグ~」でも少し述べたが、私しりぼうの学歴が、素晴らしいものか評価されるべきことかは別として、私の学歴は世間から見ればかなり特殊であるのは間違いない。
 
少なくとも、私しりぼうのように6年間で3つの大学に行った人間に、今まで会ったことも聞いたこともない。
 
大学を変える原動力は、すべて現状への不満である。学生時代当時のしりぼうは、不満が爆発しそうではなく、爆発していた(笑)
 
当時しりぼうの不満は至ってシンプルであった。大学ブランドと自分がしたい勉強の二本立てである。 
 
不満があれば、変えれば良い。※
 
これぞ転地療法の根本的な思想である。これほど、分かりやすい行動原理はない。
 
そして、私しりぼうの最も重要な行動原理の一つである。これは他でもない大学を転々とした「大学渡り鳥」の経験から確立した。
 
それ故、大学生であれば「この学部に興味が無いんだよね」や「この大学はクソ」、社会人であれば、「私の会社は給料安いし、休みも取れない」と吐き出すだけの不平屋は、個人的にはあまり感心しない。
 
私しりぼうからすれば、「じゃあ、変えればいいじゃん」としか思えない。
 
もちろん、家庭や金銭的な事情で現状を維持せざるを得ない場合もあろう。あるいは、とりあえず不平不満を誰かに言いたいだけという場合があるのも理解できる。
 
しかし、その現状に不満を抱き続けるだけで解決やより良くしようと考えたり行動しないのは、あまり関わりたくない難儀な商売である。
 
商品名:不平餅(持ち)
 
ただ、こういう発想が実生活で有効かは疑問である。私しりぼうは、転地療法の原則に従った結果、社会人になってからも転々と職を変えてしまった。「あ、これは自分の仕事ではないな」と早々と切り上げてしまったのだ。「大学渡り鳥」どころか「会社渡り鳥」になってしまった。
 
 
2.興味は変わるもの
何度も言うが、私しりぼうは6年間で三つの大学へ通った。
 
専攻は、情報学→法学→ジャーナリズムである。
 
大体の人は文系であれば4年間、理系であれば、修士課程を含めて6年間で同じ専攻を取り続けることが多いだろう。
 
もちろん、長期間同じことを学び続ける事に不満がなければ全く問題ない。
 
しかし、私しりぼうは出来なかった。一つ目の専攻情報学に関しては、センター試験結果が芳しくなかったことによって、この学部しか選べなかった。
 
裏返せば、興味関心があって情報学を選んだ訳ではないということだ。
 
誤解を避けるために言っておくと、私しりぼうは常に自分の興味を探し続けて、絶えず変化するべき、という訳ではない。
 
言いたいこと至ってシンプルである。
 
(たとえ自ら選んだ)大学の専攻だといえでも、後々興味がなくなることは、当然にありうる、ということだ。
 
実生活でもそのような興味の喪失や移り変わりは、当然に存在する。例えば、好きな歌手や音楽を熱烈に聞いている時期がある。しかし、時が経過すれば、別の新しい歌手を気に入り、次第に以前に聞いていた音楽を聞かなくなる。ひょっとすると、音楽そのものをあまり聞かなくなることもありうる。
 
かつて読書のする時は小説、今はビジネス関連書籍を読む。学生時代はカラオケに行ける友達とよく付き合っていた、社会人になってからは、落ち着いてディナーをする友人と時間を過ごしたい。
 
そのように、人間の興味、関心、好みはいつでも変わりうる。大学の専攻も同様である。そして、もし「この専攻は自分に合わないな。変えたいな。」と思ったら、全く不思議な事ではなく、望めば、変えても良いんだよ、ということだ。―まさに、私しりぼうがしたように。
 
まさに日常生活で興味関心が移り変わるように、専攻や大学、ゆくゆくは会社を変えるというのは、ごくごく人間が持っている自然な反応なのである。ゆえに、長く続けられないことを「堪え性がない」や「我慢強くない」などと自身を卑下する必要は全くない。 
 
 
3.環境重点主義

私しりぼうは以前の記事「留学失敗3つの原因 」で、外国語学習と環境の関係についてこのように述べた。

 

現地(ここでは海外の意味)とは、事前に入念な準備をし、言語を学びたいという意思と実際に学ぶ行為を伴う人間にのみ、最適の環境になりうる。そして、言語を学びたいのであれば、それは場所は関係無いと言っておこう。

 
私しりぼうは、外国語学習において、場所(環境)は関係ないと言い切った。 確かに言い切った。全く隠すことはない。しかし、厳密には、これは正しくない。故に、前言撤回をする。ただし、全言撤回ではない。一部撤回である。否、一部補足である。
 
それでも、環境は良いにこしたことはない。
 
外国語学習であれば、確かに、日本でもドイツ語や英語の勉強はできるし、能力を向上させることができる。換言すれば、外国語向上のためには、 海外に住むこと、すなわち環境が重要ではない。その個人の意思と行為が重要である。努力する人間は環境(日本であろうが海外であろうが)は関係ない。する人はする。
 
しかし、当たり前であるが、ドイツに住んでいれば、更にドイツ語を上達機会は多い。「環境必要=不要」の不毛な議論はここではしない。
 
大学であれば、難関有名大学になるほど、国からの支援は当然多くなる。三つの大学を見比べて、それは明らかであった。勉学に励む人の数や質、理系であれば研究施設の充実度などにも歴然と差が出るであろう。文系であれば、図書館の蔵書数や施設利用時間などであろう。
 
もちろん、有名大学ではなくとも、熱心に勉強に励む生徒がいる。あるいは十分な施設でなくとも研究はできないことはない、との反論もあろう。しかし、これは、相対的な問題である。有名大学であれば人やモノの面で優遇されている傾向があるということである。
 
それは、事実である。そうでなければ、何ゆえ、なるべく「良い」大学を目指すのだろうか。環境が重要でないのであれば、大学名にこだわる必要などない。偏差値を見て大学を選ぶ必要もない。それは、大学や会社、国、その他の組織でも言えるだろう。
 
悪い癖である。再び話が少し脱線した。
 
私が言いたいことは、すでに述べたように「それでも、環境は良いにこしたことはない」である。
 
 
終わりに、私しりぼうが一貫して言いたいことは、正しい生き方などないと言う事である。大学生活でさえ、環境をここまでコロコロと変えた人間は見た事がない。自慢ではない。何度も言うが、私しりぼうは「大学渡り鳥」である。
 
ただ、こういう生き方もある、ということを知らせたかった。なぜならば、私しりぼう自身が大学を変えるとき、多大なる勇気を必要としたからだ。もちろん、ロールモデルがいない事による未知の領域に踏み入れる興奮があったことは否定しない。しかし、人と違うことをするということは、とてつもないエネルギーを必要とする。
 
それゆえ、今回はしりぼうの稀な体験を伝えることにした。もし、現状に不満があり、何か変えたいと思っており、ほんの少しだけ背中を押してほしいと思っている人の助けになれれば幸いである。
 
 
 ※ただし、究極的なところ、転地が好転するかは自分次第である。このブログは「何でもいいから、とにかく現状を変えるべき」との無責任な煽りはしない。